旅のスタートとなる城南宮、その伏見のこともっと知りたい、もっと熊野古道の歴史も出てくるはずだ!そう思って辿りついた歴史研究家の若林さん。
無謀にもあらゆるところに飛び込んで、体当たりをかましまくった私坂本ですが、伏見ではとても素敵な方に引き合わせてもらえたものです。
若林さんにご紹介いただいた伏見駿河屋さん。駿河屋と言えば和歌山に総本家がある老舗和菓子屋さんですね。県民衝撃の総本家倒産が一度はあったものの再開し和歌山銘菓「本ノ字饅頭」は今も根強い人気です。
さてそんな駿河屋は室町時代に伏見で饅頭屋を創業していましたが、江戸時代に「練羊羹」を生み出します。その後、総本家は紀州に移るのですがこれは徳川頼宣に大層気に入られていたからのようです。
京都ではたくさんの分家やのれん分けがあり、駿河屋を名乗るお店はたくさん。それぞれの歴史や個性ある和菓子たちが現代も輝いているそうです。
駿河屋の分家として営業されている伏見駿河屋さんで、山本社長の持ちネタ(?)をたくさん披露いただきました!
伏見駿河屋
朝9時半頃、開店すぐの伏見駿河屋さんを訪ねました。アポなしでしたが、夜の間に若林さんがメールしてくださっていたので「あっ熊野古道の?!」とすぐ分かっていただけました。仕事が早いです~。
ご紹介をいただきながら、熊野古道を歩いていて突然の羊羹!なぜ?!会って話すほどの?!と、にわかにこの羊羹が飲みこめないまま訪れたのですが、社長の山本さんが本当に気さくで色々な歴史解説をしてくださいました。描きかけの紙芝居と乾燥寒天まで見せてくれるサービス精神!
天明元年創業のこのお店。総本家駿河屋からのれん分けして今も続く歴史ある老舗です。
かつて伏見は京都と大阪を結ぶ淀川水路の湊町として大変栄えていたそうです。海のある丹後半島ならまだしも、京都に「湊」があるって歴史うとい私は最初、不思議な気がしましたが。
そもかく活気ある湊町ですから、和菓子屋さんくらいあっておかしくはないのでしょう。でも、おもしろいのはこの立地です。
交通の要所 かつての伏見
淀川の歴史、熊野川の歴史…世界の大運河は交通網でした。速く大量に物を運ぶことができたから、熊野川では材木が、淀川では三十石船がありとあらゆるものを動かしました。
伏見はいわば新幹線の停車駅です。普通列車じゃなくてね。
幕末の藩士も、熊野参詣者も皆この湊を使いました。龍馬の襲われた寺田屋も船待ち宿です。
山本社長、最近昔のアルバムを整理していて伏見に入る巨大な外輪船の写真を見つけたんだそうです。
前に観たアニメるろうに剣心の映画で、伏見の湊に巨大な船が入るシーンがあり「こんな大きい船が伏見に入るはずがないやろ~」と思っていたので、びっくりしたんだそうです。
明治剣客浪漫譚!煉獄!はい、わたしたち30代にドンピシャのネタなので帰って思わず友達に話しました。懐かしくて笑いましたよ。
伏見は京都であって京都でないとも言われるんだそうです。伏見は伏見だと。洛中・洛外とか京都のその世界はよくわかりませんが、何となく違うのがわかるような気がします。
商人の街 大阪とつながり、口の悪いくらわんか船とも交流があったでしょう。敷居の高い京文化も取り入れながらも、様々な身分の方がいたでしょう。ちょっと親近感を憶えます。
交通の要所であった証拠のひとつは、明治時代に日本初となる電車が開通したことです。伏見駿河屋さんのすぐ側がその跡です。伏見の町から京都の街中まで、蒸気機関車ではなく電気で動く車両が走りました。
山本社長はお店を訪ねるお客様に、時間があれば解説してくれます。地域振興への情熱が伝わるし、本当にここで書ききれないくらいの歴史やミステリーがあって、山田さんと「録画したらよかった」と後悔したくらい。めっちゃおすすめです。もちろん羊羹も!
「ここは歴史の交差点」そう言ってくれた方もいたんだそうです。
旅の休憩所と与謝野晶子
なぜ伏見駿河屋がここにあるのか、実は川ルートの発着地でお殿様達の休憩所としての機能があったからだそうです。
そして伏見にはもう1店舗の駿河屋があります。こちらは総本家駿河屋 伏見本舗。ブラタモリでも紹介されたそうですが、こちらは山ルートの発着地なんだそうです。参勤交代だとかにも利用されたでしょうね。
そうそして、京都には他にもたくさんの駿河屋がありそれらは歴史ある街道沿いに位置している?!というのです…!
ここで私がハッとしたのは、女流作家の与謝野晶子です。京都ではなく大阪の堺市で生まれ育っていますが実家がそう!駿河屋なのです。そして堺は熊野街道の通る町です。
なんてこった…羊羹が行き交うところに歴史あり!?
貴重なご進物、保存食として
旅の休憩ポイントに羊羹があるのはもちろんそう。そしてもう一つ忘れてはならないのが羊羹の保存性の高さです。
伏見駿河屋の羊羹は一つひとつ手作りなので、賞味期限は半年としているそうですが長い!しかも保存料なしです。工場で生産されるものだと1年以上のものもあるそうです。そういえば私の災害持出袋にも「井村屋えいようかん」という商品が入っています。賞味期限5年です!
その場で食するも良し、船の上で食べることもできます。当然、常温保存でOK!
そりゃもう熊野古道で毎日一切れずつ楽しむイメージが湧きます。高タンパクでエネルギーチャージできる羊羹、旅のお供にぴったりで実際に登山をやる人も買って行くんだそうです。
その特性で言えば、砂糖が高価だった時代は遠方のお殿様に献上されるわけです。そうすると、ますます羊羹は日本の要となる場所に進出するのです。
すごいぞ羊羹!
テングサの歌
山本社長の出るわでるわの興味深い話をたっぷり聞きながら、さらにまだ下書き段階の紙芝居を「見たい」と言ったら出してやってくれるんです。子供たちにもどんな風に羊羹が誕生したか、わかりやすく伝えたいと制作中だそうです。
紙芝居をめくり「そしてこの寒天というのは…あっここで出さないと!」と、わざわざホンモノの寒天まで出してくれます。知ってますよ私、寒天!
その寒天の元となるのがテングサという海藻ですが、これが実は和歌山の海から運ばれてきた記録があると若林さんが言っていたのです。もちろん熊野街道、淀川を使ってでしょう。羊羹一つでこんなにも流通が見えるなんて!
この後日、紀伊路のウォークイベントで私はまたハッ!としました。実は熊野古道沿いの岩代(いわしろ)駅を題材にした「テングサの歌」というものがあるのです。NHKみんなのうたにも曲提供しているシンガーソングライターの谷山浩子さんが作った歌で、知ってはいましたが羊羹の話のときには全然結びつきませんでした。
「紀勢本線 各駅停車 みなべの次の 岩代駅の♪」
この歌、けして羊羹や熊野古道のことを歌っているのではありません。人間のいなくなった世界のテングサの目線がテーマのシュールでかわいい歌です。
谷山さんが19歳の頃に紀伊半島をユースホステルなどに泊まりながら鈍行で一人旅をしたとき、駅長さんらしき人が「あっこんなところにテングサが」と岩代駅のベンチの上にあったものを拾っていったんだそうです。そんな光景が鈍行電車のリズムのような曲を作ったんだとか。
きっと昔からこの辺りでもテングサが採れたのでしょう。もしかしたら熊野古道、小栗街道、淀川を経て羊羹になったかもしれません。
4月の旅で岩代駅を利用する予定はありませんが現在は無人駅で、ホームに入ることができます。ここで駿河屋さんの羊羹を食べてみたいなと思いました。